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LGBT?なにそれ?

りゅうちぇるの離婚で、LGBT性自認という話題がいくつか挙がっている。

昔から疑問なのだが、性自認は生きていて意識するものなのだろうか。自分が"男"だとか、意識したことは恐らくない。ただ普通に生きているだけ。世の中変な話で、ないものねだりをするな、自分を受け入れろというが、ことトランスジェンダーに限っては、ないものねだりをすることが推奨されている。金持ちになりたい、イケメンになりたいと言った願望が叶えられるなら、多くの人はそうしたい。そして、そうでないことの苦痛も被っている。

現在の技術では、性適合手術をしても、完全に望む性別の体にすることは不可能。本来の機能を失い、健康問題を引き起こす可能性は高い。また、肉体的だけでなく、精神的な問題も大きく、性適合手術後の自殺率は高い。
絶世の美女になりたいという願望から、整形依存症になれば、整形することで不満を解消するのではなく、整形をやめさせないといけない。しかし、トランスジェンダーでは、真逆のことが推奨されている。

感覚的な話になるが、自身の性が逆だとそんなにも生きづらいものなのかという疑問がある。先述の通り、自身が"男"だとか意識して生きていないので、体の機能が女だったら、普通に女として生きていると思う。その中で、趣味や嗜好が男性的だったとしても、そんな人はいくらでもいる。この話をするとデイヴィッド・ライマーの例を出されそうだが、あれは結局のところ、現代の性適合手術では見てくれを改造することしかできず、本質的に性に変えることが不可能ということを証明しているだけ。ライマーは性機能まで女性に改造されたわけではない。写真を見ても、あれを女として扱い続けることは無理があるだろうなと思う。

性の問題はセンシティブであり、踏み込みづらい。そのため、本質的にはおかしいと思っても、それに声を上げることが難しくなっている。さらに、無理解からか、とんでもない批判を浴びることもある。

そもそもの話、性の多様性云々言う割には、LGBTという枠組み自体が、男女というカテゴリの存在を肯定している。Lは女性同士の同性愛、Gは男性同士の同性愛、両性愛、Tは自身の性と異なる性自認。この中に、動物やモノに性的に興奮する人や、そういったものになりたい人は、この言葉に含まれていない。彼らも本来同じ枠組みである。

この人はLGBTに含まれない。

LGBTの発展型として、LGBTPZNというものがある。これはLGBTにP(小児性愛)、Z(動物性愛)、N(死体性愛)を加えた概念である。当然のことながら、こういう性的指向者は存在しているので、認めろという考えが出てくることは何らおかしくない。ただ、LGBTを自覚する者にとって、PZNは受け入れられない概念である。結局のところ、彼らは差別だ差別だと騒ぐ割には、同様に意識的な差別を行っている。犯罪性の観点から批判をすることは可能だろうが、日本において、小児性愛と死体性愛は犯罪に関わるが、動物性愛は問題ない。こういう話をすると、性的嗜好性的指向は違うだとか、言葉遊びが好きな人がいるが、これらの言う性愛とは、性的に興奮する対象の話でしかない。筋肉質が好きな人もいれば、ガリガリが好きな人もいる、その程度の違い。それらの大枠として同性愛や異性愛というカテゴリがあるだけで、実際はもっと多様である。

つまり、LGBTというカテゴリすら不要なのではと思う。いちいち、自分の好みを公にする必要はあるのか。人によっては、異性愛者であっても、好みの問題から極めて生きづらさを感じている人もいるだろう。彼ら彼女らは社会的に救済されない。

LGBTPZNはポーランドから生まれた概念らしいが、似たような考えを持つ人は元々いただろう。さらに、近親婚についてもどうなのかという話である。同性婚合法化のスピーチなんか見ると、そのまま近親婚に当てはめても通用する。よく、障がい児のリスクがあるため、禁止されているかのような言論を見るが、現代の日本で障がい者が生まれるから子供を作るべきではないなんて政治家が言えば、マスコミから袋叩きだろう。それを理由に近親婚は禁止というのなら、ナチスのT4作戦を肯定しないとおかしなことになり、ダブルスタンダードである。性質は連続して繋がっており、どこかに線を引くのなら、その隣はどうなのかという話になるのは当然である。その中で、LGBTの手前で線を引いても何ら問題ない。それはその人達の考えである。